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[本]のメルマガ vol.373
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□■[本]のメルマガ【vol.373】09年09月25日発行
                   [カフカはそこができなかった 号]
 http://honmaga.net/
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□■     創刊は1999年5月10日、現在の読者数は5802名です。
■□ 「まぐまぐ」で、殿堂入りメールマガジンのひとつに選ばれました。
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★トピックス
→こっそり売れてる高田郁トーク&サイン会

★特集「グーテンベルクからグーグルへ」訳者インタビュー(上)
→カフカとコンピューターから見える編集の未来

★「甘くて苦いイタリア」 雨宮紀子
→イタリアのコミック事情

★「今月のこの一冊」 小谷敏
→「酒とつまみ」誌、大好きだからこそ言いたいこと。

★「ちょっとそこを詰めていただけませんか」 竜巻竜次
→ネットを人間くさくするアイディア
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★PR★ 原 書 房 最新刊 ★ http://harashobo.co.jp/

『図説 古代仕事大全』

ヴィッキー・レオン著 本村凌二=日本語版監修

A5判 384頁 定価3990円 ISBN:9784562045259

わき毛処理師、告げ口屋、奴隷仲買人、泣き女…150を超える古代の仕事を多数の図版と共に紹介。路地裏の生活まで見えてくるウィットあふれる生活誌。

【好評既刊】『図説「最悪」の仕事の歴史』T・ロビンソン著 2940円
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■トピックス
高田郁トーク&サイン会
2009年11月7日 神戸元町海文堂書店
http://www.kaibundo.co.jp/index.html
今の時代小説というと‘月刊’佐伯泰英が棚を占拠している感があり、他の小説家の本がヒットしていても売れているような気がしないw。そんな、こっそりヒットしている一人、高田郁のトーク&サイン会

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■特集「グーテンベルクからグーグルへ」訳者インタビュー(上)
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ピーター・シリンスバーグ著。九月に慶応大学出版会から出されたこの本、編集文献学という聞き慣れない分野について紹介すると共に、テキストのデジタル化が人文学研究に与える影響を考察している。

なんて書くと難解そうだが、一般読者もターゲットにした書き方で、ピーター・ドラッカーの本を読める人なら読みこなせるくらいのわかりやすさを備えている。本好きの人、あるいは編集者や著者なる人種の方なら、「編集という名の森」copyright朝日山wの探索を楽しめる...全く読んだことはないのだけど、編集文献学の入門書としても優れているはずである。

内容は著者・編集者・読者の関係が、デジタルテキスト化によってどう変わるのか?だと思われる。

思われるというのは、恥を忍んで書くと、実はこの本まだ二章までしか読んでない状況で拙文を書いているからだ。個人的な事情でメルマガ発行までに通読する余裕がない。通読してもいないのに書評は書けない。

それで訳者の明星聖子先生へのインタビューの形式を取り、通読しつつ質問をぶつけるという、先生には大変不躾なやりかたでの協力をお願いせざるを得なくなった。それでもおつきあい下さる先生のご厚情に感謝いたします。

【質問1】
もともとカフカの研究をされていた先生が編集文献学に向かわれたのは、ドイツで出された3種類のカフカ全集、特に「批判版カフカ全集」に触れたところがきっかけですね。

全集とは、カフカとか、特定のテーマのテキストを全て網羅している「データベース」だと思っている人が多いと思います。全てを網羅しているなら全集はみんな一緒だろ?みたいな理解です。ドイツで出た3種類の全集が「編集」によってどのような違いを見せたのでしょうか?
  
【回答1】
カフカの編集について考える際、もっともポイントとなるのは、現在彼の作品として理解されているもののほとんどは、没後に遺稿から出されたものだということです。よく知られている『審判』も『城』も、ようするに未完結、未公表の草稿です。彼の友人マックス・ブロートは、できるだけ多くの人にカフカに親しんでもらおうと、それらを読みやすく整えて、本にしました。

次の「批判版カフカ全集」は、カフカの名声が世界に十分広まったあとで、逆になるべく手を加えないで出そうという意図で作られたものです。例えば、「狩人グラッフス」いう短編は、ブロート版ではまとまった「作品」らしい形を見せていますが、批判版では、ノートの上にいくつかの断片として書かれたままの、「作品」になる以前の姿が示されています。逆にいえば、ブロートは、それらの断片をつないで、タイトルも自らつけて、作品に仕立てたといえるわけです。

『審判』も『城』も、ご存じのように未完結であり、実際にはカフカによって確定的な長編小説らしい体裁が整えられているわけでありません。だから、ブロート版と批判版とでは、例えば「章」に関して、異なった分け方や順番を見せています。つまり、一歩踏み込んでいえば、その分け方や順番は、ブロートの、また批判版の編集者マルコム・ペィスリーの解釈の結果だということですね。

第3の全集は、こうした編集者の解釈による手入れをなるべく排除しようと、例えばそれの『審判』の巻は、セクションごとにばらばらの束で遺されている草稿の形を反映して、ばらの冊子をひとつの函に収める形で出版されています。すなわち、小説が一冊の本にまとめられていない、固定的な直線的順番がつけられていないわけで、それらのばらの冊子をどの順番で読むかは、読者の判断に委ねられているのです。また、それは、手書きの文字をきれいに活字化したテクストを付けるのさえ編集者による介入だという判断で、原稿を写真で出した「写真版」です。ほかにも大事な相違点はいくつかあるのですが、とりあえずここではこのあたりにさせてください。この説明で、ご質問の「違い」というのがご想像いただけましたでしょうか。

 ところで、ご質問のなかで全集を「全てを網羅している」ものと捉えていらっしゃるところが、気になったのですが・・・。というのも、「全て」というのは、おそろしく難しい言葉だからです。全てを網羅するというのは、現実には不可能であって、すでに、どの範囲を全てとみなすかという点で、編集者の解釈が入ります。

これは、フーコーもすでに「作品」概念とからめて指摘していることであって、ニーチェの作品を出版するというとき、ニーチェの手帳のなかの住所の記載や待ち合わせのメモは作品かという問題です。ここでもう一点加えさせていただけば、「批判版カフカ全集」と私が訳しているドイツ語は、じつは、Kritische Kafka-Ausgabeというもので、そこには「全」の文字はありません。にもかかわらず、それに「全集」という言葉を使っているのは、それが表そうとする意味を日本語として成立させようとするとそうせざるをえないからです。それは、正直、私としては、苦しい、忸怩たるところです。翻訳とは、本当に難しい、決断力のいる仕事だと毎日痛感しています。

ちなみに、本書『グーテンベルクからグーグルへ』でそのありようを問題にしている学術編集版とは、日本語の全集とイコールではありません。どういえばいいのでしょう・・・言葉の位相がずれているのです。例えば、あるひとつの作品しか収めていない全集というのはありえませんが、あるひとつの作品の学術編集版というのはありえます。その意味では全集より小さい概念に見えるのですが、しかし、そのひとつの作品について、これまで歴史的に存在した諸版をできるかぎり網羅的に収めましょうという意味では、はるかに大きな概念です。本書で問題となっているのは、日本語でいうところの全集のデジタル化ではない、という点は、ここで強調させていただいたほうがいいかもしれません。

【質問2】
文学作品に限らず、「編集」によってテキストは読み手に与える影響が違ってくるわけですね。先生はテキストのデジタル化について危惧をお持ちですが、訳者あとがきには大きな可能性についても触れられています。
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/gtog/

カフカ研究はコンピューターとの付き合いを要求している。「調べれば調べるほど、カフカの遺稿からは、活字テキストとしての再現は到底不可能な、途方もない(自由)が読み取れた」からですが、カフカの「途方もない(自由)」について、カフカを読んだことのない人にもわかるようにご説明いただけますか?

【回答2】
まず、ご質問の後半の部分からお答えすると、これは質問1で最初に挙げたポイントとつながると思います。ようするに、カフカはなぜ自作を公表しなかったのか? おそらく、それは、「完成」させられなかったからではないでしょうか。

ここでいう完成とは、社会的な意味での完成です。書籍として出そうと思うと、いろんなレベルで「整える」ことが必要なのはおわかりいただけると思います。ところが、カフカはそこができなかった・・・。例えば、先にふれた『審判』のばらばらな草稿の形態は、執筆自体各セクションごとにばらばらにおこなわれたことを示唆しています。それらを、社会に送りだそうとすると、本にするために、順番をつけてつないで、という作業をおこなわなければならないのですが、でもそれは、カフカ自身できなかったのではないか。

前に挙げた「狩人グラッフス」にしても、カフカ本人には、社会的にそれを「完成」と認知させる形に仕上げるのは、おそらく無理だったように思います。これはすでに拙著のカフカ論でいってしまっているのですが、それら、すなわちその「社会的」には未完成としてしか見えないカフカの書きものは、ある意味それはそれですでにおそろしいまでの完成形を示しているのではないかということです。

彼が書いていたのは、おそらく現実の形に収めるのがきわめて難しい何かだろうと思います。その彼独自の表現に向かうダイナミズムを、「自由」という言葉で表してしまっていいかどうか、じつはかなり迷ったのですが、論理の運びと紙数の都合から、何か一語でそこを乗り切らざるをえず、結局えいやっとその言葉を選んでしまったというのが、正直なところです。

ここでご質問の前半部分に戻れば、私が当初コンピュータに抱いていた期待というのは、紙の書籍には収まりきらなかったカフカのその途方もない表現を、それであれば、もしかしたら十全に再現し共有可能にしてくれるのかもしれないと思ったからです。

しかし、だんだんとわかってきたのは、デジタルメディアには紙メディアより自由な部分もあれば、ずっと制約の厳しい部分もあるということです。そもそも夢は夢というか・・・今から思えば私が再現したいと夢想していたことは、コンピュータがどうのというよりも、本来実現できないというか、原理的に現実への落とし込みを許容しえないものであったような気がします。

 ただ、本書が問題にしている編集についていえば、デジタルメディアは、うまくいけば、その特性を有効に発揮するでしょうね。欧米の編集文献学で議論されている文学研究の基盤としてのエディションの作成は、本書で伝えられているとおり、おそらく、どんどんそちらに流れていくように思います。

【質問3】
先生のカフカに対する見方を教えていただきましたが、ならば先生がそうした編集をされればいいのに、どうして危機感をお持ちなのでしょうか?上記リンク先の特別寄稿にある資料の信頼性の問題と絡めて言えば、研究を進めていくうちに資料の信頼性を判断するのも研究者の仕事だと思いますし、読者もそうあるべきではないでしょうか。またそうした判断能力のある方が編集を行うことに何ら問題はないと思うのですが。

【回答3】
ようするに、編集における「公」と「私」の問題です。私も、じつは、「編集」をしているといえるかもしれません。というのも、すでに流通してるカフカの草稿の画像を使って、それを「あとがき」でふれたソフトウェアに載せて、いろいろテキストデータを関連させたり、順番を変えてみたりと自分の研究用にごくごく小規模の「編集」を試しているからです。しかし、それはあくまで、私が個人的に「私的」におこなっていることです。

ここはたぶん、先の質問2とつながりますね。社会的に「資料」と呼ばれるものを作るのは、明らかに「公的」な編集です。そして、それは、けっして書きたいように書けばいい、編集したいようにすればいいというのではすまない、別次元の作業を伴います。

カフカが自分の「書くこと」と社会性との間で苦しんだように、正直、私も、その「公的」な領域に踏み出すのは、とてつもなく難しく、とうてい自分にできる仕事とは思えません(なんか、こういうとカフカと自分を一緒に考えているみたいで、ものすごく不遜な発言に聞こえるかもしれませんが・・・どういえばいいのか、ようするに、私もそっちのタイプの人間だということです)。

また、それ以外に、もっとそれこそ「社会的」な事実として、それはできないといえるとも思います。最初にカフカの3種類の全集の話が出ましたが、最初の編集者ブロートも、批判版の編集主幹のペィスリーも、ようするにカフカの遺稿の管理者です(ペィスリーは、1960年代から遺稿の大半が保管されているオックスフォード大学の教授です)。第3の写真版の編集者は遺稿管理者ではないのですが、写真版に関しては、じつは、一時その出版社とオックスフォード大の間で遺稿の利用許可をめぐってもめたという経緯があります。このあたり、これ以上あまり軽々しくふれたくない部分なのですが、学術版編集というのは、やりたければできるという話でもないように思います。

 ご質問の1でも申し上げたように、本書で問題となっている編集とはあくまで学術版の編集です。本書でシリングスバーグが主張しているナリッジサイトの必要性は、その「公的」な編集をめぐる理論的な考察から生じています。ここでもうひとつ大事な点を強調しておけば、学術版編集というのは、理論を必要とする概念だという点です。なぜなら、理論のないところでは、結局のところ、それは本当の意味での「公的」な活動にはなりえないからです。

(つづく)

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■Italia dolce e amara:甘くて苦いイタリア       雨宮紀子
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第5回 女子のマンガ・アニメ度はどのくらい?

今、40代くらいのイタリア人の多くは、日本のアニメの「ハイジ」や「ルパン3世」を観て育ったことは、前回に書いた。
それよりもあとの世代、ガンダムの次世代になる20代の人たちは何を観てきたのだろう。女子はどうなのだろう。

フィレンツェの北西部に住んでいるエリザベッタさんは、ちょうど20歳で、日本風にいうとちょっとぽっちゃりした女子大生だ。フィレンツェ大学の文学・哲学学部で語学を勉学中の2年生。
エリザベッタさんを紹介してくれたのもSさんだ。なんと、エリザベッタさんは12歳の時からSさんに日本語を習っていた。「日本語の覚えが早い女の子」とSさんから聞いたことがある。

なぜ、そんなに小さいときに日本語を習ったのだろう。きっかけは日本のアニメなのだ。
「最初に日本のアニメを観たのは、ミヤザキの1979年制作の『未来少年コナン(Ragazzo del futuro)』、4歳頃だったと思う」と、のっけから正確だ。記憶力がいいので語学に向いているのだろうか。
「でも、なんといっても夢中になったのは『セーラームーン』。5、6歳のころで、90年代の始めにブームになっていたの」。

『ポケモン』を観たのは小学校5年生という。中学生になってから、TVのアニメからマンガに転向。もちろん、イタリア語に翻訳されたものだ。
「父は情報システムの仕事をしていて、母は数学の教師資格があり、わたしは一人娘だから、マンガを好きなだけ買って読む自由があったのね」。

センパイ、コーハイなどという日本語も自然に覚えた。ストーリーよりも何よりも、絵がよくて魅せられたらしい。
中学生になって日本語を習い始めたもう一つのきっかけは、大学生だった従姉妹が大学で日本語を学んでいたこと。日本人の婚約者もいて、日本に行ったこともある従姉妹だったが、学士卒業したのはヨーロッパの言語で、日本語ではなかったそうで、婚約者とも別れたとか。

今のイタリア人の日本への興味は、アニメ・マンガで幼少時代をどっぷりと浸かり、アニメ・マンガ好きが高じて日本好き、日本マニアになるらしい。
ヴェネツィア事情もまじえて、そう教えてくれたのは、ブログでヴェネツィアから発信している持丸史恵さんだ。ヴェネツィア大学の日本語科の学生のほとんどは、アニメ・マンガは好きでも三島や黒沢は知らず、知るのも後からということがあるといっている。

また、こんな証言もしてくれた。マジンガーZなどで知られる永井豪さんが2年前だったか、ヴェネツィア大学で講演したときは、事前に整理券を日本語科の学生1人1枚に限るという厳しい条件で配ったが、急きょサテライトで別の教室にも生中継せざるをえないような事態になったそうだ。
持丸さんがいうように、若い世代のイタリア人は、マニアでなくても、私たちイタリアに暮らす日本人よりもずっと日本のアニメに詳しいかもしれない。

現在、ノルウェーやデンマークの言語を勉学中のエリザベッタさんは、日本語もいつか再開したいという。文学では20世紀のジョイスやウルフが好きで、イタリアの作家ではカルヴィーノやズヴェーヴォ。現代の作家では米国人のデイヴ・エガーズに興味があるというが、残念ながら私は読んでないので話ができないのは残念だった。

エリザベッタさんの3大愛好マンガは『エヴァンゲリオン』、『ふしぎの海のナディア(Mistero della pietra azzurra)』、『未来少年コナン』と決まっている。これは彼女にとっては永遠の宝で、一生、手放さないつもりらしい。丁寧に1冊づつプラスチックのカバーのかかったコレクションを、今でも読むそうだ。だから、中学生の時にルッカ・コミックスに行ってコスプレも見ているが、日本のオリジナルのマンガをここで買うことはあっても、交換は絶対にしなかった、と。

宮崎駿監督のアニメも最新作に至るまで全て観ているエリザベッタさん。
「いつか、日本語も習得して、日本に行きたい」。それは夢ではなく、難なく実現する時代でもある。


◎雨宮紀子(Gatta Italiana)
フィレンツェ在住のフリーランス。イタリア関係でテレビ番組や雑誌の企画をコーディネートしてうん十年。メルマガ『イタリア猫の小言と夢』は、melmaの2007年メルマガ・オブ・ ザ ・イヤー受賞。
http://www.melma.com/backnumber_86333/




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■今月のこの一冊 グロバール化した世界を斜め読みする 小谷敏
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「酒とつまみ」 第12号 酒とつまみ社 季刊(?) 250円

ロシア人のアルコール摂取量は、一人年間18リットルに達するそうです。アルコールだけで、ちょうど一斗!日本酒換算ならその6倍強!月平均5升です。未成年者やまったくお酒を飲まない人まで含んでこの数字です。

酒好きは、どれだけ飲むことやら。ロシア男性の平均寿命は、59歳にまで落ち込んだことがありました。ロシアは日本以上に自殺率が高い数少ない国の一つです。男性が短命であることや自殺の多さの背景に、過度の飲酒があることは明らかです。メドベージェフ大統領が、「国民的災厄」と叫ぶ所以でしょう。

アルコール中毒といえば連続飲酒がイメージされます。しかし日本人の体力では、なかなかそれはできません。だから絵に書いたようなアル中は少ないのでしょうが、アルコール依存症とその予備軍は増加傾向にあるようです。

飲酒の量の多寡に関わらず、健康を損ない、仕事や家庭生活に悪い影響が出ても酒をやめたり控えたりできない人は、立派なアルコール依存症患者であるといえます。テレビには酒のコマーシャルが溢れ、コンビニでは24時間簡単に酒を買うことができます。飲酒に対するこの寛大さにも疑問を覚えます。

「酒とつまみ」というマイナーな雑誌が酒好きたちの間で静かな人気を博しています。編集長の大竹聡さんは、いまや「メディアの寵児」です。「酒とつまみ」と言っても。グルメ雑誌ではありません。有名無名の酒好きたちの、ゲロを吐いたとか失禁したとか、酒の上での失敗談が延々と出てくる雑誌です。大酒飲みの著名人への酒場でのインタビューがこの雑誌の目玉商品。第1回には中島らもが、第5回には高田渡が登場。両雄はともに本誌登場からほどなくして亡くなりました。酒がお二人の命を縮めたことは否定できません。

 12号の冒頭には大竹さんがラジオの番組に出演した後、泥酔し、顔面から大出血した話が掲載されていました。大竹さんの古典落語を思わせる語り口は軽妙そのもの。この「痛い」エピソードも良質の笑い話に仕立てあげられています。この辺りの才覚はさすがと思います。

しかし不安になります。大竹さんも40を超えています。若い頃のように無茶がきくはずがありません。こんな飲み方をしていれば、いつか中島らもと同じようなことが大竹さんの上にも起きるのではないか。ファンであればこそそんな心配をしてしまいます。

 「酒とつまみ」にはしかし何の罪もありません。楽しい雑誌です。だが世界の超大国の指導者が酒びたりであるとすれば、これは由々しき問題です。ジョージ・ブッシュ・ジュニアが、若い頃はアルコール依存症患者であったことは有名です。大統領としての彼の衝動的な意思決定にアルコール依存症の残滓をみるのは私だけでしょうか。日本では最近、「酔いどれ会見」によって大臣の椅子を棒に振った政治家が亡くなりました。アルコールに曇らされた頭脳が、世界を動かす重大な意思決定を行っていた可能性を否定できません。

◎小谷敏
大妻女子大学人間関係学部教授。「余命5年」の難病から生還し、こうしてモノが書けること感謝。最新刊「子どもたちは変わったか」世界思想社

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■ちょっとそこを詰めていただけませんか 竜巻竜次
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今回は「便所の落書き」の話

「便所の落書き」とはつまり人目がないのを幸いトイレの壁に書きなぐった卑猥な言葉の事。

なぜそんな話をしたいかと言うと…最近、携帯の機種変更をしたら契約コースも変更を余儀なくされた。ならば「パケットし放題」にしようと。

だものでニュースを携帯で見る機会が増えた。するとニュースにコメント欄なるものがあり(なにを今頃と言うだろーけど私は携帯でニュースチェックするようになって初めて気がついた)たまたま暇に飽かせて読んでみたら…

「便所の落書き」並みのひどい言葉の嵐が並んでいた。卑猥な事を書いていると言うわけではない。ただ「匿名」である事をいい事に己のストレスのはけ口にしているところが「便所の落書き」なのだ。
(もちろんニュースによってはコメント欄上で議論らしきものに発展しているものもあるが)

で、しばらくして気が付いた事がある。
「落書き」には「もしかしたら自分が犯人だとばれるかも?」と言う後ろめたさがあったり、「筆跡」やら文字のサイズなどなんとなく人間くささと言うか微妙な感情が見て取れる気がするのだがネットへの書き込みにはそれがいっさい感じられないのだ。

「手書きの落書き」はまだ卑猥であろうが暴力的であろうが「対人間」のイメージがある。ところがニュースやブログのコメント、2ちゃんねるの書き込みなどは得体の知れない「悪意」のみが感じられて薄ら寒い気持ちになる。

パソコンや携帯に向かって、隣にいる、多分普通のいい人、が書き込んでいる「負の感情のみの文章」には恐さとかではなく「寒さ」を感じるのだ。

これ、もしかしてキーボードで打つからそうなるのかな?
書き込みはすべて「手書きでなければならない」とかにしたらどうだろう?
または「音声入力に限る」とかは?

そうすると少しは「人間」が見えてこないだろうか?

夜中、一人暮らしの人の部屋から「死ね!」「死んで下さい、かっこ笑い」とか聞こえて来てもまだ人間っぽく思えるかも知れないもの。

◎竜巻竜次
マンガ家 自称、たぶん♀。関西のクリエーターコミュニティ、オルカ通信のメンバーとしても活躍中。この連載も、呑んだ勢いで引き受けてしまった模様
http://www.mmjp.or.jp/orca/tatumaki/tatumaki.html
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■編集後記

来月から、現代美術関連の新連載が始まります。仮タイトルは

『はてな?現代美術』

現代美術ってなんやねん?のみならず現代美術市場についても触れていただけるようなのですが、個人的に気になる点が一点。

それは、25日号は女性著者のメルマガになりつつあるということ。男性は小谷先生だけで、あとは全て女性が書いておられて、今回のインタビューの相手、明星先生も女性という状況に、おいおいと.........(^_^;)

当初から女性の著者を集めようとしているわけではなく、たまたま受けていただけた方が女性が多くなっているだけなんですが、一言。

どうせモテるなら、学生時代にモテたかった!
はい、牽強付会、論理破たん、意味不明の一人ごとですw
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コメント
 瑣末事ながら、「グーテンベルグからグーグルへ」とある書名は、『グーテンベルクからグーグルへ』が正しいと存じます。vol.376の「訳者インタビュー(下)」でも「ベルグ」と濁ったまま直ってなかったので、一往お知らせ。
| 森 洋介 | 2009/12/03 5:15 PM |
森洋介さま

確かにご指摘の通りです。
直します。ありがとうこざいました。
| 朝日山 | 2009/12/07 9:46 AM |
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