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[本]のメルマガ vol.244.5
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■■ [本]のメルマガ   2006.03.30.発行
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■■   臨時増刊号:ジャン=リュック・ナンシー来日記念特集号
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 ★「臨時増刊号配信のご挨拶」/五月
 
 ★「ナンシーの新刊訳書をめぐって」/未來社編集部・中村大吾
 →ナンシーの新刊およびイベント紹介、著者略歴や既刊などもおさらい。

 ★「世界の意味──近年のナンシーを振り返る」/西山達也×大道寺玲央
 →キリスト教を脱構築し、世界化の問題系を切り開く哲学者の核心に迫る。

 ★『私に触れるな』日本語版序文/ジャン=リュック・ナンシー
 →発売に先行して特別掲載! キリスト教における「復活」をめぐって。

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「[本]のメルマガ」は、出版人・書店人・著述家などを本業とする同人記者団
による、本をめぐる様々なエッセイと業界情報を配信する、無料メールマガジ
ンです。創刊は1999年5月10日、現在の読者数は6716名です。日本最大の配信
サイト「まぐまぐ」で、「殿堂入りメールマガジン」に認定されています。
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■「臨時増刊号配信のご挨拶」/五月
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このたび「[本]のメルマガ」では、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナ
ンシーの十年ぶりの来日を記念して、臨時増刊号を配信します。4月12日の東
京日仏学院でのイベントを皮切りに、東京と京都で「身体をめぐる省察」や
「無神論と一神論」と題した講演会が行われます。いずれも参加無料です。

当臨時増刊号においてはナンシーの著書『イメージの奥底で』(以文社より近
刊)の訳者二氏による対談と、『私に触れるな』(未來社より近刊)の日本語
版序文を特別掲載します。

編集にあたっては全面的に未來社編集部に誌面を委ねました。同人以外の手に
なる作成は初の試みで、まもなく創刊満七周年を迎える「[本]のメルマガ」
がより広い「交流の場」へと開放されていくためのステップの一つになります。

未來社の中村大吾さんや寄稿者の方々をはじめ、この臨時増刊号の記事執筆と
編集製作にご協力いただいたすべての関係者の皆様に感謝いたします。そして、
久しぶりの来日を果たされるナンシーさんに心からのご挨拶を申し上げます。

◎五月(ごがつ):「[本]のメルマガ」編集同人。http://urag.exblog.jp
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■「ナンシーの新刊訳書をめぐって」/未來社編集部・中村大吾
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デリダ以後のフランス現代思想を代表する哲学者、ジャン=リュック・ナンシー
氏の来日にあたり、このたび、この「[本]のメルマガ」という媒体をお借り
して、臨時増刊特集号をお送りする運びとなりました。誌面をご提供くださっ
た同人の皆様、またご協力をいただいた以文社様に感謝いたします。

1940年、フランス・ボルドー生まれ、現在ストラスブール(マルク・ブロッ
ク)大学名誉教授のナンシー氏。今回の10年ぶりの来日では、東京および京
都にて、計5回の講演会・討論会が企画されています(スケジュールは下記に
掲載)。そして、同時期に関連出版も相次ぎます。ジャック・デリダによるナ
ンシー論が先ごろ発売されたのに引き続き、来日にあわせ、ナンシーの翻訳が
2冊刊行されます。以下の3点です。

▼『私に触れるな──ノリ・メ・タンゲレ』
ジャン=リュック・ナンシー著、荻野厚志訳、46判上製138頁、本体2000円、
未來社刊(2006年4月)、ポイエーシス叢書55、ISBN4-624-93255-2 C0310。
帯文より:復活を遂げたイエスとマグダラのマリアの邂逅──しばしば絵画の
モチーフとなった名高い場面。そこでイエスがマリアに告げる「私に触れるな
(ノリ・メ・タンゲレ)」という言葉とその絵画表象にひそむ、触覚と視覚、
出現と消滅、欲望と暴力、愛と真理、身体と感覚、生と死……それらが絡み合
う構造を鮮やかに分析する。イメージの問題から切り込み、キリスト教の脱構
築を展開する、小著ながら射程の深い一冊。
http://www.miraisha.co.jp/

▼『イメージの奥底で』
ジャン=リュック・ナンシー著、西山達也・大道寺玲央訳、A5判上製272頁、
本体3200円、以文社刊(2006年4月)、ISBN4-7531-0246-7 C0010。
帯文より:虚偽としてのイメージからイメージとしての真理へ──。「神の死」
そして「形而上学の終焉」以降の今日、哲学の名のもとに新たな「意味のエレ
メント」を切り開き、「世界の創造」へと結び直す。ナンシー「イメージ論」
の集大成。
http://www.ibunsha.co.jp/

▼『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』
ジャック・デリダ著、松葉祥一・榊原達哉・加國尚志訳、46判上製598頁、本
体4800円、青土社刊(2006年4月)、ISBN4-7917-6257-6 C1010。
帯文より:アリストテレスから現代にいたる哲学が、触覚の直接性に基づく
「直観主義」の罠に陥っている様を詳細に分析し、それを免れたナンシーの哲
学の可能性をおし開く。現象学からドゥルーズを含むフランス現代思想全般を
初めて批判的に論じ、その精神的背景としてのキリスト教=グローバリゼーショ
ンの脱構築を試みたデリダ晩年の哲学的主著。
http://www.seidosha.co.jp/

『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』はすでに書店店頭に並んでお
ります。ナンシーの2点については4月10日前後より発売開始です。

今回の出版で、ナンシーの著作(共著も含む)の翻訳はちょうど20冊刊行さ
れたことになります。以下に掲載する邦訳書リストをご覧いただけばおわかり
のように、2000年以降、毎年2〜3冊の翻訳書が刊行されています。あらた
めてふりかえると、これほどのペースで翻訳が出版されている海外の現役の思
想家・哲学者は、いまは──デリダ亡きいま──他にはいないでしょう。

そもそも最初の紹介は、いまから20年あまり前、《ポストモダン叢書》の一
冊として刊行された『無為の共同体』(朝日出版社)でした。バタイユらとの
呼応のなかで書かれた本書において展開された〈共同体〉と〈主体〉をめぐる
思考は大きなインパクトを与えました。国民国家(ネーション)論などの同時
代的な思潮において、「近代的な」主体・共同体──均質で、同一的で、堅固
な、所与のものとしてある主体・共同体──への問い直しがなされつつあった
なかでの、アクチュアリティもそなえていたでしょう。(なお、雑誌論文をも
とにした翻訳である同書は入手不可ですが、同論文を所収した単行本原著全体
が2001年に以文社から同じメインタイトルで翻訳刊行されました。)

前回の来日(1996年)での講演「実存に責任を負う」および、浅田彰氏との
討議は、『批評空間』II─13号(太田出版)に再録されています。その同時代
性はたとえば、「主体と責任をめぐって」と題された同号での「共同討議」
(西谷修・高橋哲哉・浅田彰・柄谷行人)もあわせて読まれるとわかるかもし
れません。〈主体〉〈責任〉〈共同体〉あるいは存在論(「ともにあること」、
存在の複数性)の哲学者としてのナンシー。その作業は、『無為の共同体』か
ら『共出現』そして『複数にして単数の存在』へといたるなかで、結実を見せ
ます。同時代的な呼応を見せつつも、カント、ハイデガー、そしてデリダを強
い参照枠として、いわば西洋哲学(形而上学)の総体を相手取り、その後継者
を自任する。しかも、すでに「形而上学」が終わったのちの「哲学者」として、
それを内破させる……。「この哲学の真の後継者、おそらくはあまりに正統的
な後継者」とは、ナンシーについての浅田氏の評言(上掲誌、55頁)。

しかし、今回邦訳される2冊はやや趣を異にするように見えるかもしれません。
近年、この哲学者は、おおまかに言って二つの哲学的プロジェクトを遂行して
きています。〈イメージ論〉と〈キリスト教の脱構築〉です。邦訳書で言えば、
『肖像の眼差し』『映画の明らかさ──アッバス・キアロスタミ』が前者にあ
たるでしょう(また、月曜社より刊行予定の『ミューズたち(仮題)』もこの
系譜にあります)。後者の〈キリスト教の脱構築〉が展開された翻訳書として
は『神的な様々の場』がありますし、ガリレ社からは昨年5月に『デクロジオ
ン(La Declosion)』が刊行されています(未邦訳。この著作には「キリスト
教の脱構築1」とサブタイトルが付いていますので、今後続刊が出版されるこ
とでしょう)。そして、この二つの思考が交叉するところに、たとえば『訪問
──イメージと記憶をめぐって』があり、今回翻訳刊行される2冊もこのポジ
ションを占めます。なぜ、いま、イメージとキリスト教なのか。そのコンテク
ストと射程については、それぞれの訳書に付された訳者解題が有益です。イメー
ジ経験の奥底へとわけいる思考、そしてキリスト教(あるいは宗教一般)のな
かにあるイメージの異他性への着目……。じっさいにこの2冊をお読みになっ
てお確かめいただければ幸いです。

この臨時増刊号では、そのためのイントロダクションとして、二つのテキスト
を掲載いたします。まず、上述の近年のナンシーの仕事について、『イメージ
の奥底で』のお二人の翻訳者にダイアローグを展開していただきました。そし
て、二つ目が『私に触れるな』「日本語版序文」です。このテキストは、ナン
シーの問題提起が、じつは非一神教的世界に生きているわれわれにも明確にと
どいていることを示唆しています。著者の諒解のもと、先行公開いたします。

最後に、デリダ著『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』についても
“触れて”おきましょう。ナンシー著『私に触れるな』と呼応するような題名
ですが、じつのところ、後者は、ある意味、前者へのリアクションとして書か
れたものでもあります。2000年に上梓された『触覚、……』では、原書で350
ページにわたるナンシー論が展開されています(当時デリダ70歳、ナンシー
60歳!)。哲学史における触覚というモチーフへの着目のなかでナンシー独
自の思考を浮かび上がらせたデリダ書。ナンシー書(原著2003年刊)のタイ
トルは、もちろんそのデリダへの当てつけではありません。イエスの復活劇
(の表象)についての分析のなかで、デリダの感覚論が言及されます。幾度も
応答を重ねてきた二人の哲学者。そこにみられる思考の共振は、ある種の“友
愛”のすがたでしょうか。しかし、その友の一人は、すでにいないのです……。

ともあれ、きわめて緊密な関係にある3冊が(ほぼ)同時に、しかも著者の来
日にあわせて刊行される、という案配です。ぜひこの3冊を携え、講演会など
にご参加くだされば、と思います。

なお、手前味噌ではございますが、未來社刊行の月刊PR誌「未来」6月号
(6月1日発行)にて、ナンシーをめぐる小特集を企画しております。講演報
告などを掲載する予定です。こちらもご期待いただければ幸甚です。

◎中村大吾(なかむらだいご):1977年生。未來社編集部。

◆◆◆来日講演日程◆◆◆

4月12日(水)19時〜
東京日仏学院(飯田橋) エスパス・イマージュ
ラウンドテーブル「共通の大義:翻訳者の使命(ジャン=リュック・ナンシー
の著作について)」(ナンシー+上田和彦+加藤恵介+澤田直)
問合せ先:東京日仏学院(電話03-5261-3933)
http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/conference_j.html#1204

4月13日(木)16時〜
早稲田大学 文学部キャンパス 33号館 第1会議室
講演「身体をめぐる省察」
問合せ先:早稲田大学文学部フランス文学専修室(電話03-5286-3681)
http://www.littera.waseda.ac.jp/major/futubun/info.html

4月15日(土)15時〜
東京大学 駒場キャンパス 学際交流棟3階 学際交流ホール
ラウンドテーブル「無-無神論(A-atheisme)」
(ナンシー+鵜飼哲+小林康夫+西谷修+増田一夫+湯浅博雄)

4月17日(月)18時〜
日仏会館(恵比寿) 1階ホール
講演「無神論と一神論」
問合せ先:日仏会館フランス事務所(電話03-5421-7641)
http://www.mfj.gr.jp/prog/prog_060405j.html#c0417

4月19日(水)16時30分〜
立命館大学 衣笠キャンパス 創思館 カンファレンスルーム
講演「無神論と一神論」【17日講演と同内容】
+討論(ナンシー+西谷修+加藤恵介+加國尚志)
問合せ先:立命館大学独立研究科事務室(電話075-465-8375)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2006/0419.htm

※すべて申込不要、参加無料。通訳付き(同時通訳/逐次通訳)。詳細は各開
催先にお問い合わせください。

★記念上映★
4月14日(金)19時〜、4月15日(土)19時〜
東京日仏学院 エスパス・イマージュ
『アデュー』監督:アルノー・デ・パリエール(2004年/124分/35ミリ/
カラー/英語字幕付)
会員:500円/一般:1000円 ※作品はナンシー氏による選択です。
http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/cinema_j.html#Nancy


◆◆◆ナンシー邦訳書一覧(刊行順、価格はすべて本体)◆◆◆

『無為の共同体──バタイユの恍惚から』西谷修訳 朝日出版社 85年 絶版
『エゴ・スム──主体と変装』庄田常勝・三浦要訳 朝日出版社 86年 品切
『共同─体(コルプス)』大西雅一郎訳 松籟社 96年 1300円
『主体の後に誰が来るのか?』(編著)
    鵜飼哲・港道隆ほか訳 現代企画室 96年 3800円
『声の分割』加藤恵介訳 松籟社 99年 1300円
『自由の経験』澤田直訳 未來社 00年 2800円
『侵入者──いま〈生命〉はどこに?』西谷修訳編 以文社 00年 1800円
『哲学の忘却』大西雅一郎訳 松籟社 00年 1900円
『無為の共同体──哲学を問い直す分有の思考』
    西谷修・安原伸一朗訳 以文社 01年 3500円
『神的な様々の場』大西雅一郎訳 松籟社 01年 2900円
『ナチ神話』(フィリップ・ラクー=ラバルトとの共著)
    守中高明訳 松籟社 02年 1700円
『共出現』(ジャン=クリストフ・バイイとの共著)
    大西雅一郎・松下彩子訳 松籟社 02年 2600円
『ヘーゲル──否定的なものの不安』
    大河内泰樹・西山雄二・村田憲郎訳 現代企画室 03年 2400円
『訪問──イメージと記憶をめぐって』西山達也訳 松籟社 03年 2600円
『世界の創造あるいは世界化』
    大西雅一郎・松下彩子・吉田はるみ訳 現代企画室 03年 2400円
『映画の明らかさ──アッバス・キアロスタミ』
    上田和彦訳 松籟社 04年 2400円
『肖像の眼差し』岡田温司・長友文史訳 人文書院 04年 2400円
『複数にして単数の存在』加藤恵介訳 松籟社 05年 3600円
『哲学的クロニクル』大西雅一郎訳 現代企画室 05年 2200円
『私に触れるな──ノリ・メ・タンゲレ』荻野厚志訳 未來社 06年 2000円
『イメージの奥底で』西山達也・大道寺玲央訳 以文社 06年 3200円
『ミューズたち(仮)』暮沢剛巳・荻野厚志訳 月曜社 刊行予定
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■「世界の意味──近年のナンシーを振り返る」/西山達也×大道寺玲央
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西山達也(以下★) 《イメージ》と《キリスト教の脱構築》をめぐる仕事が
ナンシーの思考のうちに占める比重が最近ますます高まっているわけですが、
その一方で、彼の仕事の理論的中心線は、「共同体」や「存在の複数性」をめ
ぐる考察にあるとされています。1983年の『無為の共同体』、あるいは90年
代の『共出現』や『複数にして単数の存在』といった著作がすでに日本語でも
読めるようになっています。そこにイメージ論とキリスト教の脱構築がやって
来るというわけです。

大道寺玲央(以下☆) 今回翻訳が刊行される2冊も、まさにその主題をめぐ
るものですね。

★ ただ、単線的発展を期待する読者からすると、『無為の共同体』以来、ど
ういう展開があるのか見えにくくなっているのも事実です。しかも、90年代
に「国民共同体」批判の文脈で一定の貢献を果たしたナンシーの共同体論に比
べて、最近のナンシーの著作は、注意深く読まないと、単純に彼の思考の源泉
である西洋哲学・一神教の論理への退却のようにも見えてしまう。2002年に
刊行された『世界の創造』なども、「世界化(グローバリゼーション)」の問
題を論じていながら、「創造」という一神教的な概念を掘り下げるというアプ
ローチを採用しているがゆえに、「世界化」を批判するための使い勝手のよい
道具立てを提供してくれるものにはなっていませんよね。

☆ したがって、むしろ読者が自発的に読み込んでいかなければならないとい
うか、少なくとも、ナンシーのテクストを翻訳していると、彼の言っているこ
とをもういちど翻訳(パラフレーズ)しなければならないという必要性を強く
感じますね。

★ 実際に、ナンシーは、そういうパラフレーズの欲望を強く喚起するテクス
トを書いているんだと思います。その意味で、『イメージの奥底で』の第四論
文「異郷化をともなう風景」は、パラフレーズの必要性をとりわけ強く感じる
テクストですよね。「風景」という一種の《イメージ》を論じてはいるのです
が、それが生半可な風景論でないことがすぐに分かる。「風景(paysage)」
はここでは、「くに(pays)」「農民(paysan)」とあわせてトリアーデをな
している。これらはフランス語では語源的に関連しているのですが、このなか
には「風景」=イメージと、「くに」=共同体という、ナンシーにとって重要
な二つのテーマが織り込まれていることになります。

☆ そうですね。しかもこれら三者の関係を通して語られているのは、「世界
化」の問題なんですよね。ナンシーはこの文脈で、「くに」が「異郷化」する
過程として「世界化」を語っている。
 「くに」ということでナンシーが考えているのは、「大地」とのある関係の
様態であって、存在論以外の言葉でこれと規定するのが難しいのですが……、
社会学でいう、ゲマインシャフトのような共同体を思い浮かべていただけると
よいのでしょうか。そして「農民」とは、農業を営む人というよりも、まずは
「くに」に住む人々のことです。フランス語で「くに(pays)」という言葉は、
国から市町村まで、様々なレベルの共同体を指して使われる、ごくごく日常的
な言葉です。ただいずれの場合でも、それは行政的な単位として捉えられた共
同体を指すものではない。ナンシーにとってこれは、同じエートス(生活慣習)
を共有している人々の、ある種、自然な「まとまり(tenue)」を指します。
ナンシーは「エートス」の訳語として、この「まとまり」という語をしばしば
あてているんですよね。

★ 「農民」は多神教を奉じる人々だと、つまり「異教徒」であると言われて
いますね。この「異教徒」という語も、「くに」や「農民」と同じ語源をもっ
ているのですが。

☆ その「くに」から、生活世界の隅々に息づく、神々の気配が次第に消え去
り、「くに」は「異郷化」する。これが、多神教的な世界への一神教の出現と
重ねられ、この「異郷化」が全面化する事態が「世界化」であるということに
なります。そして「風景」、つまり「くに」のイメージは、異郷化とともには
じめて可能になる。「くに」から神々の現前が失われることで、「くに」の表
象が可能になるわけです。
 ですから、一方ではゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという話のよう
でもあり、他方では「世界の脱神秘化」の話のようでもある。いずれにしても、
普通に読むかぎり、西洋中心主義的な目的論にもとづいた物語が開陳されてい
るとも言えるわけですよね。ここで言われている「世界化」とは、つまるとこ
ろ「西洋化」であるわけですから。

★ 西洋近代的な「世俗化」の論理ですね。自らを普遍性のうちに消失させつ
つ惑星規模に拡大する西洋、とも言えますが。そもそもナンシーにとって、
「世界化」は両義的な概念です。一方でグローバリゼーションによって農民た
ちを彼らが愛着をもつ「くに」から追い出してゆく運動であると同時に、他方
で、世界という〈開かれ〉に触れることでもある。後者の場合、ハイデガー的
な世界内存在が念頭におかれているのですが、ナンシーはこの意味での実存論
的分析論の前提をけっして否定しません。もちろん、世界内存在から「ひと
(ダス・マン)」への頽落を経て、民族共同体としての現存在の共同生起へと
至る通路もつねに開かれているわけですが。
 それからナンシーは、農民にとって「くに」が、そのつど「私のもの」であ
ると言っていますが、これは死に臨む存在の「各私性」というハイデガーの規
定を引き継いだものです。「くに」が「農民」たちにとってそのつど「わがく
に」であるということ、そして共同存在の関係については、ナンシーにとって、
つねに喫緊の問題だと言えるんじゃないでしょうか。「異郷化をともなう風景」
のなかで、ナンシーは「自分の出自が農民である」と言っていたりもしますね
……。

☆ その意味では、彼はいまでも「哲学の農民」だと言えるのかもしれません
ね。ナンシーは、「哲学」や「コンピューター」を自分の「くに」とすること
も可能だと言っていますから。そんなナンシーにとって、哲学をすることとは
「くに」を考えることであると言ってもよい。しかし、その「くに」は、「異
郷化」し「世界化」する「くに」です。そもそも、哲学自体が「異郷化」とと
もにしか始まらないのですから。
 ここで、ナンシーが「異郷化」、あるいは「世界化」と呼んでいる事態を別
の言葉でいうと、それは、「意味」そのものに触れる経験だと言ってよいわけ
ですよね。

★ ではナンシーにおける「意味そのもの」とは何なのか、という問いが出て
きますね。

☆ 『存在と時間』との並行関係で言えば、ハイデガーにとって「世界」はま
ず、道具的存在者の連関として我々に現れてくるわけです。そこでは、「意味
そのもの」などというものは問題とされない。道具とは、その「意味」につい
て思いをめぐらす前に、その使い方をいわば体で覚えてしまっているもののこ
とだからです。人々がエートスにしたがって生活する「くに」でも事態は同じ
ですね。パソコンの機能を完全に理解してから使い始める人がおそらくいない
のと同じように、生活習慣も、その意味についてあらためて吟味してみる前に、
すでに身についてしまっている。
 ただ、ナンシーが「くに」について、それがハイデガー的な意味で「そのつ
ど私のもの」と言っているのは、「くに」自体のなかに、「意味」への開けの
契機が内包されているということですね。

★ それが、「各私性」の「意味」ですからね。

☆ 「意味そのもの」が問題となるのは、道具でも物でもありえない、いかな
る仕方でも意味づけできないものが視界に入ってくるときのことです。その特
権的なものが、自分自身の「死」だとされます。生活共同体では、死について
何らかの意味づけがなされているわけですが、死を「私のもの」として切実に
捉えようとすればするほど、その無意味さ、捉え難さのみが捉えられる。私の
「くに」も、そのような仕方で、無意味な「意味」そのものへと開かれている
とナンシーは言うわけです。
 ところで、ハイデガーの実存論的分析論では、「世界」についての分析は、
それが意味作用の連関であるというところで打ち切られ、意味そのものは「時
間」であるとされます。それに対してナンシーは、世界が意味そのものである、
としていますね。あるいは意味とは、世界化の運動である、と。……簡単に言
うと、前もって与えられた「世界の意味」、あるいは「世界の目的」などない
ということ、この発見をナンシーは「世界化」と呼び、「世界の創造」と呼ん
でいると言ってしまって良いのでしょうか。これらのことは『世界の意味』に
書いてあるんですが、邦訳が待たれるところです。

★ そうですね、それくらい単純な前提から出発して哲学史を経めぐるところ
に、ナンシーの思考の強靭さがあるとも言えますね。
 世界化と創造の関係といえば、ネグリなども、〈帝国〉に抗するマルチチュー
ドの創造的な力ということを言っていますよね。ナンシーは『世界の創造』の
なかで、ネグリの「創造」概念について言及していますが、自分は世界の「意
味」ということを考えた上で「創造」を語っているのであって、ネグリのマル
チチュード論も「意味」の問いを経由する必要がある、と言っている。「農民」
と「マルチチュード」を単純に重ね合わせるつもりはありませんが、ナンシー
による存在の意味の問いと、ネグリの労働存在論との交差する地点に、「創造」
の問いがあるのは間違いないでしょうね。

☆ かたやハイデガーとの対話を通じて「複数にして単数の存在」を語るナン
シーと、他方でスピノザとマルクスをつなぎながら「マルチチュード」を語る
ネグリ。両者は、哲学的なラベルを貼ってしまえば、ハイデガー的な超越論と
スピノザ的内在主義という対立関係をなすようではある。けれども、この関係
がそのように単純な布置に収まるものでないことは明白です。
 ネグリにとってマルチチュードとは、生産の主体でありながら、その当の生
産の客体でもある。だとすれば、マルチチュードは、生産の主体/客体という
図式で考えるよりも、同時に主体でも客体でもある創造行為そのものであると
考えたほうがよいとされる。近代的な主体も、それぞれ異なる仕方で自己創造
的なものだと言えるとしても、マルチチュードは、その創造行為がある単一で
超越的な目的へと従属しないかぎりで、近代的な主体とは異なるとされていま
す。

★ そのような語り口で創造を語るかぎり、ナンシーについても同じようなこ
とが言えてしまいますね。

☆ そうなんですよね。例えば、「農民」と「くに」の関係をとりあげてみれ
ばわかりやすいでしょう。この両者の関係は、一方が働きかける側、他方が働
きかけられる側とはもはや言えない。この両者はむしろ、ある同じ現実を異な
る相から捉えたものでしかない。しかもこれは静止的な関係ではなく、相互作
用としてある現実です。もちろん、この両者は、「風景」という表象の契機を
介して、他なるものへと、あるいは意味そのものへと開かれている。しかし、
ナンシーが言う「意味」とは、なにか超越的な目的のようなものではありませ
ん。意味が世界であり、また別の箇所では「意味とは我々である」とも言われ
るのですから(『複数にして単数の存在』)。さらに言っておけば、彼が問題
とする存在とは、「能動的で他動詞的な」ものなのであって、それは生成と区
別しがたい。

★ 内在にして超越、存在にして生成。これらの対立を超えたところで、ナン
シーの読解にかかると、スピノザも、ニーチェも、ハイデガーも、あらゆる哲
学者が「意味」の問いに触れていたことになる。あるいは、「意味」なるもの
が、そのつど内在的とも超越的ともつかない仕方で到来する、と言うべきでしょ
うか。
 ただし、ナンシーが「創造」の問題を論じるに際して、彼が具体的に依拠し
ているのがカントの構想力論だということは明記しておくべきでしょう。ナン
シーにとって、創造とは神的なものの《退隠》にほかならないのだけれど、こ
の神的なものの《退隠》という主題と、カント的な構想力における図式の《秘
密》という主題が重ね合わされているわけです。しかも、世界の創造の教説と
二重写しにされるカントの構想力論とは、ハイデガー経由のカント、こう言っ
てよければ「神の死」の宣告者として読み替えられたカントの構想力論です
(『イメージの奥底で』参照)。創造の問いとは、神の死の問いであり、それ
は構想力の問いである。そして構想力(イマジネーション)の問いとは、結局
のところイメージの問いにほかならない……。

☆ 神の死の宗教である一神教が世界化したという物語を引き受けたうえで、
「世界」レベルでのエートスを考えること。それは「くに」について、個々の
イメージについて考えることと別のことではない。

★ これらの問いは無限に変奏可能でしょう。ナンシーという哲学者は、概念
の数が無限であるという限りにおいて、無限のヴァリエーションをもってみず
からの問いを変奏してきましたし、それらの問いをみずからのものとして引き
受けてきました。今回の来日で、ナンシーがどんな問いを携えてやってくるの
か、楽しみなところですね。

◎西山達也(にしやまたつや):1976年生。東京大学大学院総合文化研究科
博士後期課程満期修了。日本学術振興会特別研究員。訳書に、ナンシー『訪問』
(松籟社)、デリダ『滞留』(共訳、未來社)など。
◎大道寺玲央(だいどうじれお):1974年生。中央大学大学院文学研究科博
士後期課程満期修了。ナンシーの指導のもと、ストラスブール・マルク・ブロッ
ク大学哲学科にてDEA取得、現在博士論文を執筆中。
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■『私に触れるな』日本語版序文/ジャン=リュック・ナンシー(荻野厚志訳)
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▼訳者付記

以下に掲載するテクストは、4月に未來社より刊行される、ジャン=リュック・
ナンシー著『私に触れるなーーノリ・メ・タンゲレ』のために、著者本人が寄
稿した「日本語版序文」である。著者の諒解のもとにここに転載する。
(体裁上の制限により、傍点は省略し、ルビは[ ]で補った。フランス語の
アクセント記号も省略。段落ごとの1行アキもあらためて加えたものである。)

新約聖書には、復活したイエスがマグダラのマリアに姿を見せる場面がある
(ヨハネ20節)。復活したイエスは、自らに触れようとするマグダラのマリ
アに向けて言う──「ノリ・メ・タンゲレ」。「私に触れるな」を意味するこ
の言葉は、おもに絵画の題として広まることになるが、この言葉と、その絵画
作品における表象を論じたのが、この著作である。

なぜイエスは「触れるな」と言ったのか、結局マグダラのマリアは触れたのか
触れていないのか、この問いに、言語とイマージュ(image)両方の側面から
ナンシーは返答する。さらには、この場面が典型的に示す、「聖なるもの」と
の接触の可能性が論じられる。宗教が呈示する「真理」は私たちを拒んでいる
のではないだろうか? では、真理はどこに? ナンシーが目下取り組む「キ
リスト教の脱構築」は、絵画によって、復活の場面によって、開かれる。では
なぜ復活なのか。「序文」のあとに、ごく簡単な解説を試みる。

        *        *        *

『私に触れるな』日本語版序文

キリスト教の伝統にもとづく概念や表象にあまり親しんでこなかった読者に向
けた説明を、本書は必要としている。この試論の中心にある「復活」という概
念も、この伝統の一部をなす。

実際、この「復活」という概念は、西洋における三つの一神教の伝統に属して
いる。この概念はユダヤ教に現われ(しかしながらそこでは端役でしかない)、
キリスト教で広く展開され、そしてイスラームでは非常に明確なかたちで維持
されている。

キリスト教において、復活とはたんに死者たちが生へと復帰することを指すだ
けではなく、この復帰そのものがイエス・キリストの復活のなかに、その可能
性と意味をもつのである。イエス・キリスト、一人の人間のうちに受肉した神
の息子は、死刑の宣告を受け、磔刑に処され、埋葬されたが、三日後に復活し、
弟子たちに自らの姿を見せ、その眼前で地上を離れる。復活は、キリスト教の
大いなる肯定となる──とりわけ聖パウロによって。復活したキリストは、人
類救済の確証にして原理であり、それによって人類は死を超えた永遠の生を約
束されているのである。

最もありふれたかたちでは、そしてイマージュの秩序においては、生へと回帰
した一人の死者が墓の外へ奇蹟的に抜け出るものとして、復活は描かれる。た
とえば、福音書で語られているラザロの復活という奇蹟も、同じことである。
その限りにおいて復活とは、消滅の純粋かつ単純な取り消しであり、生の返還
にして復元であり、死への最終的な勝利である。その本来の発想は、死を超え
た「再出現」の発想である、と言う人もいるだろう。その場合、死は、見かけ
のうえでの、ほとんど幻のような、挿話のひとつでしかないだろう。

このような形象化にしたがうなら、キリスト教信仰[=信foi]の中心項目で
ある復活は、不死性というかたちで無邪気な信仰[croyance]を表象すること
しかできないことになる。それゆえ、しばしばとくに厳しい批判の標的にもなっ
た。しかし、その最終的な意味──神学的、精神的、哲学的、どのように言っ
ても──が、こうした幻影のなかにとどまるということは、もちろんありえな
い。キリスト教思想がこれほどまでに復活を強調するのは、それはまずもって
キリストという人格の、それゆえまた彼の死の、徹頭徹尾人間的な現実性を強
調するからである。死の現実性は否定されていない、そして、屍体に生命を取
り戻させるような「超自然的」細工が問題なのではない。「復活」という語は、
自らを「起き上がらせる」行為、あるいは自らを「立て直す」行為を意味して
いる(ギリシア語の「アナスタシス」にしたがって。このギリシア語自体は近
い意味のヘブライ語を翻訳したものである)。復活とは、直立姿勢が、つまり
地上の水平性に直交する垂直性が、方向=意味[サンス]の変化を示している
という意味で、死者の〈起ち上げ〉[levee]である。

だが、ここでいう「サンス」を、垂直的なものと水平的なものという物質的実
在性にしたがって理解してはならない。重要なのは死の意味[サンス]であり
──あるいは死すべき生のもつ意味[サンス]である。ある行程(水平性、方
向性)の果ての完成へと向きを変えるような方向[サンス]にとどまるのでは
なく、死すべき生のもつ意味[サンス]は、中断され、「立て直され」、ある
別の広がりにしたがって転換される──この広がりは「行程」とも「方向」と
も無関係であり、どのようなものであれ「完成」とは無関係である。「サンス」
とは、もはや意味[サンス]ではなく、真理である。死に逆らうのではなく、
死のうちで自ら起き上がるような、不死性のなかにおける死という真理である。

以上が、本書を貫く解釈的前提である。この前提は、墓から出たイエスがマグ
ダラのマリアに自らの姿を見せ、自らに触れることを、さらには自らを引き留
めることを彼女に対して禁じた、福音書の挿話に依拠している。イエスが言う
には、彼は〈父〉のもとへと向かわなければならない。彼は自らの神聖な本性
を取り戻さなければならない──結局それは自らの死の現実性を確証すること
でしかない。

復活した者は引き留められてはならないし、引き留められることもできない。
というのも、復活した者はどうあってもこの世には属していないのだから。復
活した者は、この世の外でこの世にいる。アナスタシスは次のような問いを開
く。この世のものでなくしていかにしてこの世に存在するのか? キリスト教
的な定型表現であるにもかかわらず(「この世のものである」、「この世に属
している」、つまり死を定められ、罪を負った、被創造者たる条件の定型表
現)、この問いは次のように訊ねることにほかならない。いかにして意味ある
いは真理の秩序のなかに存在するのか? このことは、さらに次のように訊ね
ることにほかならない。いかにして「人間」であるのか?

こうした省察が、明らかに想像的な価値と同時に「肉体的な」価値(女性、触
覚)を負った、ある物語に端を発して開かれるのだとしても、この省察が感覚
的なフィクションや形象のなかで──はっきりと言うなら文学と絵画のなかで
──示されるのだとしたら、そのことは次のような意味にほかならない。まさ
しく世界が、「この」世界(唯一の世界)が問題となる、ただし、ヴィトゲン
シュタインが言うように、世界の「意味」が世界の「うちに」はない限りにお
いて。しかし、「外部」というわけでもない、外部はないのだから。

ならば私たちは宗教を遠く離れている。私たちは文学のなかにいる。そして絵
画のなかにいる。そして思惟のなかにいる。ともかく私たちは再出現の幻想と
は明らかに別のところにいる。

日本の読者への本書の紹介として、私は最後に付け加えよう。「別の生」、
「別の世」、さらには「世界の外部」──翻訳可能性のあらゆる困難と引き替
えに、神道や仏教、そしてそれらのさまざまな転調において、特有の意味をそ
のつどもちうる表現である──を肯定するような他の宗教諸形態が、類似した
やり方で理解されるということも不可能ではない。一般的に、あらゆる形態に
おける宗教は、たったひとつのテーマしかもっていなかった。すなわち、死を
通して生の連続性を保証することである。そして、宗教はおそらくつねに、
「真の」通過を想像しようとしていた。それと同様に、正確には通過ではなく
「通して」があるということを考えようとしていた。別の岸があるわけでもな
く、しかしながら真に「通して」である「通して」を。

結局このことはおそらく、人間誰しもがつねに知っていることにほかならない。
しかも、それは語りうるような何かではまったくないのである。

              二〇〇六年二月、ジャン=リュック・ナンシー

        *        *        *

▼訳者後記

なぜ復活なのか? まずはジャック・デリダの『触覚、ジャン=リュック・ナ
ンシーに触れる』への応答として。『私に触れるな』で考察されるように、キ
リスト教の文脈において、究極の「触れることのできないもの」とは、復活し
た身体である。つまり、この身体への接触は、触覚の限界を示すことになる。
デリダによって分析された自らの触覚論を、ナンシーは感覚の限界に、死の感
覚に、喪の場面に結びつける(同時にキリスト教の限界に)。

ここで「救済不可能な死」という二人の哲学者に共通のテーマが浮上する。そ
もそも通常の意味における「イエスの復活」とは、現実的にはありえないこと
である。それは奇蹟だからこそ、信仰の対象かつ基盤になる。ナンシーが批判
するのは、この奇跡を基盤にした救済への信仰である。そこで彼は「復活」を
意味するギリシア語「アナスタシス」から、別の意味(「起ち上げ」など)を
引き出し、救済もなく、慰めもなく、あくまでも現実的な、かけがえのない死
を強調する。つまりそれは、かけがえのない実存の肯定でもある。ただし、こ
の実存は他者とともに死ぬ。

自ら死にゆくものとして、死(者)を前にして、いったい何を語ればいいのか。
デリダとともにナンシーは、この問いを最も深めた人間の一人であろう。

◎荻野厚志(おぎのあつし):1972年生。一橋大学大学院言語社会研究科博
士課程在籍中。『私に触れるな』に引き続き、ナンシー『ミューズたち(仮
題)』の翻訳を準備中(共訳、月曜社より刊行予定)。
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